翻訳と辞書
Words near each other
・ キュリオシティ
・ キュリオシティ (探査車)
・ キュリオシティー
・ キュリオショップせぴあ堂
・ キュリオス
・ キュリオテテス
・ キュリオム
・ キュリオン
・ キュリクス
・ キュリロス
キュリロス (スラヴの(亜)使徒)
・ キュリー
・ キュリー (単位)
・ キュリー (小惑星)
・ キュリー (曖昧さ回避)
・ キュリー(放射線の単位)
・ キュリーの原理
・ キュリーの法則
・ キュリーエンジン
・ キュリー・ワイスの法則


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

キュリロス (スラヴの(亜)使徒) : ウィキペディア日本語版
キュリロス (スラヴの(亜)使徒)

キュリロス(ギリシア語: ', ブルガリア語: , チェコ語: Cyril, ロシア語: , 827年 - 869年2月14日)は中世の東ローマ帝国の知識人、キリスト教修道士神学者である。教会スラヴ語ブルガリア語ロシア語等からキリル、キリール、チェコ語からはツィリルなどとも表記される。正教会カトリック教会聖公会ルーテル教会聖人。元の名はコンスタンティノス。同時代文献にはしばしば「哲学者コンスタンティノス」として言及される。グラゴル文字の考案者として知られる。
現在のロシアなどで使用されるキリル文字の考案者と考えられていたが、彼が実際に考案したのはグラゴル文字であり、キリル文字は後世に作成されたとされる。, ブルガリア語: , チェコ語: Cyril, ロシア語: , 827年 - 869年2月14日)は中世の東ローマ帝国の知識人、キリスト教修道士神学者である。教会スラヴ語ブルガリア語ロシア語等からキリル、キリール、チェコ語からはツィリルなどとも表記される。正教会カトリック教会聖公会ルーテル教会聖人。元の名はコンスタンティノス。同時代文献にはしばしば「哲学者コンスタンティノス」として言及される。グラゴル文字の考案者として知られる。
現在のロシアなどで使用されるキリル文字の考案者と考えられていたが、彼が実際に考案したのはグラゴル文字であり、キリル文字は後世に作成されたとされる。'', チェコ語: Cyril, ロシア語: , 827年 - 869年2月14日)は中世の東ローマ帝国の知識人、キリスト教修道士神学者である。教会スラヴ語ブルガリア語ロシア語等からキリル、キリール、チェコ語からはツィリルなどとも表記される。正教会カトリック教会聖公会ルーテル教会聖人。元の名はコンスタンティノス。同時代文献にはしばしば「哲学者コンスタンティノス」として言及される。グラゴル文字の考案者として知られる。
現在のロシアなどで使用されるキリル文字の考案者と考えられていたが、彼が実際に考案したのはグラゴル文字であり、キリル文字は後世に作成されたとされる。'', 827年 - 869年2月14日)は中世の東ローマ帝国の知識人、キリスト教修道士神学者である。教会スラヴ語ブルガリア語ロシア語等からキリルキリールチェコ語からはツィリルなどとも表記される。正教会カトリック教会聖公会ルーテル教会聖人。元の名はコンスタンティノス。同時代文献にはしばしば「哲学者コンスタンティノス」として言及される。グラゴル文字の考案者として知られる。
現在のロシアなどで使用されるキリル文字の考案者と考えられていたが、彼が実際に考案したのはグラゴル文字であり、キリル文字は後世に作成されたとされる。
== 生涯 ==
テッサロニキの富裕な家庭に生まれた。コンスタンティノポリスで哲学を学び、卒業後修道士となりキュリロスの名を称した。コンスタンティノポリスの大学で教え、ギリシア語だけでなくラテン語やヘブライ語に熟知した文献学者、またユダヤ教やイスラム教を理解し反駁を著す哲学者として高名になった。9世紀後半、モラヴィア王国が東ローマ帝国にキリスト教宣教師を要請すると、布教のためモラヴィアへ兄メトディオスとともに派遣された。二人はロスティラフ王を初めとするモラヴィア王家に洗礼をし、キリスト教に改宗させた。また、新たに考案したグラゴル文字を用いて古代教会スラヴ語への聖書の翻訳を行うなど、スラヴ世界におけるキリスト教伝道に努めた。そのためキュリロスとメトディオスの兄弟は、ともに「スラブの(亜)使徒」と称され、スラヴ圏のキリスト教会では篤く崇敬される。
867年、兄弟はローマ教皇ニコラウス1世からローマに招かれた。当時、モラヴィアの管轄権をめぐり、また奉神礼における言語、つまりは彼らが翻訳したスラヴ語聖書を使用する妥当性をめぐり、ザルツブルク司教ティトマールが論争を起こしており、これを解決する必要が生じていた。二人は、聖クレメンス聖遺物を携え、弟子たちを伴ってローマへ上った。
868年、ローマについた二人は温かく迎えられた。二人の学識とコンスタンティノポリスで身に着けた温雅な文化人としての態度をローマの人々は賞賛した。アドリアヌス2世は、二人を支持し、モラヴィア伝道の許可を確認するとともに、議論の焦点であったスラヴ語による奉神礼に公式の許可を与えた。しかしキュリロスは、この年の終わり、病にかかり、ある修道院に静養のため入り、その50日後、869年2月14日、没した。
いくつかの資料では、彼はモラヴィアの主教に任じられたとあるが、この記述の歴史的信憑性は低い。
彼の死後、モラヴィア伝道とスラヴ語奉神礼の整備は、兄メトディオスと弟子たちに引き継がれた。彼らの翻訳した古代教会スラヴ語の聖書と祈祷書は、正教会を中心に、一部の地域では現在も使用されている。ただし、彼らのモラヴィア布教は最終的に東フランク王国の圧力で失敗に終わり、モラヴィアはラテン典礼:en:Roman Rite:en:Latin liturgical rites)を受容し、のちにカトリック圏に入っていくこととなった。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「キュリロス (スラヴの(亜)使徒)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.